特攻という悪夢 | 軍事作家 橋本 純の反戦ブログ

特攻という悪夢

中東の自爆攻撃と重なる為か、幾度となく特攻に関し意見を求められましたが、私は生き残った人々の証言を忠実に伝えつづけました。
誰もお国の為に死にたいなどと本気で思っていなかった。
その風潮に逆らうことは、許されない世界だったから、若者は強制的にしに追いやられたに過ぎない、と。
特攻は志願が中心だったと言うのも、神話に過ぎない。
部隊単位で必要な機数を割り出し、攻撃に必要な技量を会得した者がリストアップされ、自動的に特攻隊員になっていっただけだ。
志願書とは、すなわち死に証文、命令に逆らえない者たちの身売り証文でしかなかった。
こう言った側面を見れば、ムスリムの人々が自ら死を厭わぬ奇異を、日本人も感じてしかるべきであろう。
彼らには、真に死の栄光と死後の地位が約束されている。
夢想の世界と言えばそれまでだが、宗教と言う物は、狂信的であろうが無かろうが、その教義に心理の大半を支配されてしまうものだ。
アメリカにおいてもキリスト教的タブーは、依然大きな意味を持ち、国民の意識の低へんで影響を与えている。(カソリックである欧州は尚更だ)
そんな中で、日本人は世界的に稀有な無神論者の大国である。
仏教や神道があると反論しても、それは形骸化された儀式の為の宗教であり、日常の生活の指針を与えるべき存在とはなりえていない(創価学会までがそうだとは言わぬが、彼らは日本の主導的立場に無いのは無論のことだ)
かつての日本で、人間の命を兵器の一部に組み込んだのは、軍事政権が作り上げた力への信奉(いやむしろ服従)に他ならない。
これは、宗教より厄介な存在だ。
何故なら、そこに救われるべき来世は無いのだから。
死は崇高なる物か、いや、過去から現在を通じ、そうであった時期はあまりに短い。
死とは、あまりに我々に近く、そして軽い物なのだ。
だが、決して他者を巻き込むべきものではない。
宗教倫理を越えて、自己だけでなく他人を死に追いやる行為は、呪われてしかるべき犯罪と受け止めるべきである。
特攻の戦死者は、哀悼すべき対象ではあるが、決して賛美すべき対象ではない。それをしっかり、理解して欲しいと言うのが、私の若者たちへの願いである。