国民性という壁 | 軍事作家 橋本 純の反戦ブログ

国民性という壁

宗教が、その国において国家の性格を形成するというのは、国際関係論における基礎情報であり、これを履修せずに外交や戦争を語るのは、無茶である。
しかし、現在多くのNGO関係者(本当は、ゴロという言葉をあてはめたい位だが)が、この宗教に対してあまりにも無関心である。
必然であろう。
日本は、世界でもっとも宗教観念の希薄な国家ということが、きちんとした統計学において立証されている。
自分が信心深いなどと言う国民は、確実に全人口の50%を下回る。それどころか、複数の宗教を受け入れているというのも、あまりに稀有だ。
神道が宗教である事実を失念している者も多かろう。
その血筋(血統というと、火病を爆発させる人もいるだろうからね)によって、道教と儒教を住み分け、なおかつキリスト教が大多数の国民の信仰を集めている韓国も、稀有な存在だが、日本と違い、彼らはきちんと自分の所属する位置を把握している。
日本人のように墓参りをして帰りに神社で願掛けを行うような理不尽な行動はとらない。
明治政府が、神仏混淆の排斥に躍起になったのは、国家神道というプロジェクトを彼らが立ち上げたからだ。
その残滓を、現在の日本人が引きずっているのは面白い。
さて、では昭和初期の日本人の宗教観念とはいかなるものであったか?
これは実に興味深い。いまどきの右翼にまで綿々と受け継がれる、現人神(大爆笑ですね、本気で言える人間は)を崇めると言う、既に当時ですら失敗となっていた宗教観と民間の信仰を教育の現場で、別物として叩き込まれたわけですから。
民俗学で調べもの、とくにフィールドワークをやっていて、一番悩まされるのが、この昭和期に強引に祭神を変えられた無住の社にぶつかることだ。
聞き込みが可能な地域では、老人に本来の社の名前を教えてもらい、そこからだいたいの主神の推測はできる、しかし過疎地域などで、太平洋戦争に纏わる変更が行われていると腹立たしくなってくる。
政教分離のはずの日本で、今後こう言ったことが起きたら、この国に住む意味がなくなったときだと、私は宣言しておく。
右傾化だけは、断固反対する、でもそれと作品は別物なので念のため(核爆)