旧日本軍の戦死者が、特定できない理由 | 軍事作家 橋本 純の反戦ブログ

旧日本軍の戦死者が、特定できない理由

フィリピンの件は、どうも過去形で話さないといけなくて、なおかつ別の要素が絡んできそうなので、後日に。


第二次世界大戦で日本軍は、膨大な戦死者を出しましたが、誰が何処で死んだのかを特定できるのは、全体のごくわずかです。(島とか大まかな地区は判るんですがね)

海軍は、乗艦名簿があって、沈没した場合は生還者と照らし合わせて精度は高い(でも漂着者捕虜は戦死扱いになってますよ、殆ど)のですが、陸軍の場合戦術の問題(集団で行軍して壊滅とかね)もあるのですが、そのもっと以前の問題として、日本陸軍が個人識別行動をやってなかったのが、原因ですね。

軍人手帳は支給されるけど、密林戦じゃぼろぼろになるし、名前消えちゃう代物ですからね。それに、これに管理番号って存在してないんですから。

認識票というものは、皆さんご存知ですね。アメリカじゃドッグタッグ(犬の鑑札)と呼ばれてましたが、これに名前と生年月日や出身地が記されて、入隊すると全員に配られました。二枚が一組で。

何故二枚なのかというと、一枚は生存者が持って帰り、もう一枚は死体に残すためです。(正式には口にくわえさせるんですが、これは収容作業のときに行うのが普通でした。ドイツ軍などは、折り目があって、ぺきっと割る丸い一枚のもの使ってましたね)

日本軍にも認識票はありました。しかし、個人認識票は存在しませんでした。

どういうことかというと、戦闘に出かける前に、番号札が配布されるんです。それを、部隊名簿に書き込んでいき、生還者が戦死者から回収できたものは戦死、それ以外は行方不明扱いというシステムだったんです。

ところが、太平洋戦争になると、大陸戦と違い、部隊の全滅や離散が当たり前になり、もはやこんな悠長なことやってられなくなったのですね。

結果的に、後に生還した人間の証言などから戦死認定を行うことになり、玉砕の場合は全員戦死扱いにしてしまったんです。

しかし、行方不明のまま戦死認定されず遺族年金を支給されないなどの問題があったのは、年配者ならご存知ですね。今は裁判で、未帰還兵は戦死扱いとなってます。

しかし、この玉砕が曲者なんです。

サイパン島、玉砕の島として有名ですね。

ところが、戦争が終わって半年近くたってから、一個小隊規模の部隊が発見されて、終戦を信じないので、米軍が上陸しなかったロタ島の司令官がやって来て説得して、やっと降伏したということもありました。

いや、それどころか、ペリリュー島では、戦後7年経って20名医ほどの部隊が出てきたという例もあります。

当然、その間彼らは戦死者だったわけです。

さらに、日本軍は戦陣訓という、とんでもない兵隊の教科書(むしろバイブルか)のようなもの(島崎藤村が文章を書いたのですが、中身は陸軍の人徳者とまで言われた某将軍が作りました)で、生きて虜囚の辱めを受けず、なんて教育しちゃったから、捕虜は絶対に出ないというスタンスで戦争続けていたのですね。

(実際には、真珠湾攻撃の特殊潜航艇部隊から1名捕虜が出たのが判り、二人乗り潜航艇五隻での攻撃、全艇未帰還なのに、戦死の9勇士は…などという苦しい発表をする羽目になってたりしてるから、実情は矛盾の塊だったわけですね)

そういうわけで、戦後の復員作業が始まってみると、自分のお墓や位牌に対面することになった元日本兵が全国に山のように出現したのです。

こういう状況ですから、生存者がいるといわれた場合、嘘だと言い切れないのですね。


ちなみに、アメリカ軍でも戦s死確認できないと行方不明扱いで、状況によっては恩給どころか、脱走嫌疑までかけられたといいます。管理が行き届いても、こういう状況が生まれるのですから、結局死者はイデオロギーに踊らされているようなものですね。

いずれにしろ、そんな誰が死んだかわからないような戦争は、もう絶対に起こしてはなりません。(無論、戦死者がはっきりした戦争もです。ただ、こちらは現在進行形ですから、止めてくれとしか私には言えません。市民一人ではこれが限界、しかし、市民が集合したものが国家だということも忘れてはいけません、人間はあきらめなければ、驚くほどの奇跡を生むものです)